八郎の父 雷山


 八郎の父雷山は祖父昌義の長子。名は秀寿(ひでとし)、幼名は治助。弘化元年(1844年)35歳にて家督相続、治兵衛を襲名した。 20歳のとき鶴岡荒町の富商三井屋吉の三女、当時14歳の亀代と結婚。

 号ははじめ柳眉、後に雷山と改めた。雷山は昼間は家業に勤しんで、夜は燈火の下で書を読んだ。書は歴史・文学の類を好み、唐詩選を愛して全巻暗誦した。しばしば古法帖を手本として書道を嗜み、書画刀剣の趣味も深かった。俳諧は庄内飽海郡松山の村田柳支について学んだ。柳支の没後、「見風舎句集」一巻を編み、師恩に報じた。

 斎藤家では客を喜び、雷山が風雅を以って親交し、文通した人物は130人にも及んだ。その書簡を編して「到来集」四巻を作った。雅友の中で最も敬服したのが藤本鉄石と富処西馬であったた。

 また旅行を好み、庄内の三名湯といわれる田川・湯野浜・温海の温泉、新庄の瀬見温泉などにはよく出かけた。また登山も好み、羽黒山には毎年二度は必ず登ったそうだ。