清河八郎が開いた塾


 江戸に出てきてから、東条塾に行ったり安積艮斎塾に行ったり、昌平坂学問所に行ったりしてバリバリ学んだ清河八郎は、そのころ居候させてもらってた東条塾の手伝いをして後輩に教えたりしているうちに、そろそろ自分の塾を開こうと考えた。


 あるとき、浅野雄斎という人から手紙が来た。この人は八郎が昌平坂学問所にいた頃に千葉へ旅行して知り合った。東条塾の先輩で、千葉の成田で開塾していたのだが、そのとき「江戸で開塾したいから、いっしょにやろう」と八郎に言ってくれていたのだ。ところがこの御仁、途中で気が変わってしまい、塾は君一人でやってくれという手紙を寄越したのだ。


開塾費用は朝浅野と折半でひとり10両ずつという約束だったので、どうしようかと悩んでいると、東条先生が「塾はひとりでやったほうがいいよ」という。
それで神田三河町裏通りの武家屋敷を30坪ほど借りて20坪の小さい家を新築した。

「経学・文章指南 清河八郎」

という看板を出したら通いの門人が3〜40人も集まった。

土佐の岩崎惟謙の文に曰く、

羽の清河君士興、来たりて江戸に在り。諸名儒の門に出入すること年有り。一旦新たに某港にト居し、まさに帷を下し諸生に教授せんとす。居方に成り、弟子日に進む。士の名を聞きて来る者、足、門に相踵ぎ、けだし駸駸乎として盛んなるに幾し。

因みに清河八郎が文武二門授けたというのは誤りだそうだ。