清河八郎の最期


「イギリスとの交戦に備えて帰東せよ」という朝廷の命に従って江戸に戻った八郎たちは、帰東まもなく、幕府が生麦事件の謝罪状を出したり賠償金を払ったりしているので、朝廷から攘夷の勅状を奉戴しておきながらこの態度は朝廷への裏切り行為ではないか!ここで独立大挙して攘夷を唱えることで、幕府組織制度内漬の起爆剤となってやろう、と考えた。そして横浜夷人街焼討ち計画をたてた。

彼が暗殺された当日訪れようとした金子与三郎というのは、いつも八郎の傍にいて書記官のようなことをしていた人なのだが、彼は根っからの幕臣で、八郎とは相容れない部分があったようだ。八郎たちのの横浜焼討ち計画を察知した幕府は、金子のところに清河暗殺の命を下した。

金子は「大切な話があるので来てほしい。秘密の話をするので一人で来てください」と言って八郎をおびき寄せた。

八郎は今焼討ちを実行しても、きっと京都の寺田屋のときと同じになるだろうと思った。それに、浪士組が攘夷を声高に唱えることで十分幕府内潰の起爆剤の役目は果たせたと思った。それで、この呼び出しは幕府が自分を「なき者」にするための罠に違いないと察知していながら金子の招待を受けることにした。

八郎が出かけるときはいつも護衛を4・5人連れて、十分警戒していた。だがこの時は一人で行くことを決心した。それは実行主犯となる自分が不在となることが横浜焼討ちを止める唯一の手段と考えたから。

木の鶏は虚心無我、天下に恐れるものは無い。選ぶ道は木鶏の如く黙って死んでいくことである。

八郎は出かける前に郷里の実父に遺書のような手紙を出し、また、高橋泥舟宅で辞世とも読める歌を書いた。そのあといろいろな人に会っているのだが、これはどうも訣別の挨拶だったようだ。

金子の家で散々ご馳走になって帰るとき、金子の長子に「私はこれからあることを決行する。これをあげるから大切にしてね」と言って脇指を与えた。そして金子家から帰る途中、佐々木只三郎らに打たれて死んだのだった。 享年34歳。